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7/31 BUMP OF CHICKEN @東京ドーム / 初音ミクとのリアルタイム共演

東京ドームで初音ミクと共演した「ray」について、ずっと考えています。紛うことなく楽しかったあの短い時間に、それでも私の中に残ってしまった違和感って一体何なのか。

ひとつ思ったのは、ライブで解放される歌や音楽の自由さを、初音ミクとのコラボが制限してしまったのではないか、ということ。ミクちゃんの歌声は本当にそこに「居る」かのようで、それはlivetuneのkzくんや当日の音響の方々、加えてミクちゃんの3Dや投影技術を担当された方々などの尽力の賜物であって、2次元と3次元が交差する見事なデュエットでした。ただ、あらかじめフィックスされたミクちゃんの歌声とデュエットするためには当然、藤くんがそれに合わせないといけませんでした。

ライブの醍醐味のひとつには、その時にしか生まれない音がある、その瞬間が音に反映される、ということがあると思います。テンポが揺らぐ。歌詞が変わる。メロディーの抑揚が音源とは全く違う。演奏のミスや音が出ないなんてハプニングすら、ライブの醍醐味かも知れません。それは BUMP OF CHICKEN のライブでもそうであって、ことさら藤原基央の歌の魅力がまさにそれだと思うのです。今その瞬間を切り取って音にしてしまうのが本当に上手な人。その時その場限りのメロディーや詞が生まれては消える、その刹那に居合わせた嬉しさや切なさに圧倒される、そういう歌心の持ち主であると。

ライブが終わって記憶に残るものは、そんな生きた音なのだけれど、今回の「ray」はそうして期待して待っていたものとは違っていたのかも知れません。ライブゆえの歌や音の自由度が、ミクちゃんのフィックスされた歌に合わせる必要性のために、あるいは生身の歌の一部を任せたために、抑制されてしまっていたように感じられました。それが私の違和感の正体で、転じて、私がバンプのライブに求めているのは音や歌によって今その瞬間を鳴らすコミュニケーションなんだろうな、とも思います。

あくまで私の感じたものについて考えてみました。バンプ好きのみなさんはどうでしょう。
でも、ステージ上でダイヤモンド(ダイヤモンド3Dホログラフィックシステム/東市篤憲さんによる技術で、立体ダイヤモンド型のスクリーンに初音ミクが投影されました)が光り出した瞬間の興奮や、再びミクちゃんが消えていく瞬間の切なさははっきりと覚えています。どこか引っかかりながらもやはり楽しかったし面白かった。共演したことで互いを引き立てるような化学反応は未だ感じられないけれど、一瞬ながらあの時間は本当にエンターテインメントでした。だから結局、ミクちゃんにはありがとうと言いたいと思います。

10月4日 あの日への追記

NHKにて放送された BUMP OF CHICKEN のドキュメンタリーを観ました。最初のニュースからとんでもなく時間がかかってしまったけれど、初音ミクとの共演について、つっかえていた何かがやっとストンと腑に落ちました。というのは、藤くんが番組内で初音ミクという存在ついて「世界中の色んな人の色んな思いを形にして発信してきたんだろうなと…」と発言していたことと、何よりあの日の共演を映像でもう一度詳細に観ることができて、ミクちゃんが引き出してくれたものも沢山あったのだと、やっと実感できたのだと思います。藤くんがメロディーを渡した瞬間はとてもとても印象的で。声を持つ楽器であり、世界中のどこでもいつでも歌うことが出来る、思いや意味を託されるバーチャルシンガー。もう何の曇りもないや。あー、やっと素直に受け取れた。嬉しい。「初音ミクはなぜ世界を変えたのか?」(柴那典・著)をもう一度読み返すところです。