あることないこと

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RADWIMPS 『×と○と罪と』

Xと○と罪と (初回生産限定盤)Xと○と罪と (初回生産限定盤)
(2013/12/11)
RADWIMPS

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私の見解として、
「だんだん万人受けするような曲調になっちゃって…」
「なんか急にバンドサウンドじゃなくなったから嫌だ…」
みたいな理由で推していたバンドから離れていってしまう人たちには共感できないんです。
荒々しくて青い演奏のほうが良かったのか、“バンドと自分たちの世界”が“みんなの世界”
になってしまうのが嫌なのか知らないけれど、
それを曲調や音のせいにするのはズレていると思うし、そういう状況が切ない。
「あのバンドは変わってしまった」んじゃなくて、
あなたが彼らの音楽的な変化・進化についていけなくなったのでは?と。

RADWIMPSの新しいアルバム。ギター・ベース・ドラムにボーカルという
4ピースバンドの基本形態にはもはや拘束されていない、
音楽としてとても自由度のある楽曲たちが並んでいました。
音が呼んだ音を鳴らす、というか、生まれたメロディーに気持ちいい音をあてにいくと
自然と色々な楽器を鳴らすことになったり、逆に鳴らさないという選択をしたり。
全曲通してバンドがそういうことができるようになる所まで来たんだな、という。
バンドのために音楽を作るのではなく、音楽のためにバンドが在る、というような。
これはミュージシャン、音楽集団としてとても喜ばしいし
とても健全な状況なんじゃないかと思うんです。

私的にはRADのこれまでのアルバムで1番。
今年聴いたアルバムって、出落ちというか尻すぼみ感あるものが多かったんですけど
( 単に私の集中力不足かも知れない 笑 )
このアルバムは最後まで色々驚かせられるし、カラフルで面白くて飽きない。
それも「色モノ作ろう」みたいな気負い感や挑戦的な無理がない、自然なカラフル加減。

で、これまでも確かに打ち込み系の曲がたまにあったりしたRADだけど、
このアルバムでいよいよ「あれ、違うかも…」って離れていっちゃう人も居るのかもなぁ
なんて気もするんです。
バンド側としては、鳴らすべき音を自由に選択できるようになった喜ばしい状況なのに、
リスナーがそれに違和感を示してしまうというこの乖離は、やっぱり切ないです。
“より色々な人に響くような音楽になった=薄っぺらくなった”なんてことでは
決してないのに…
ま、杞憂かもしれない。
でも、いよいよ解放的に鳴らされるようになった音楽を受け入れて
色んな楽しみ方をしてほしいんです、意固地に何かにこだわっている人たちには。

言うたら私だって好き嫌いは多いし、知識もまだまだ浅はかなものだし、
荒削りなサウンドの良さだって分かるのですが。
別ベクトルの気持ち良さだってあるよ、なんて偉そうな言い方ですけど… 汗


自由さ、自然さというと、音だけじゃなく洋次郎さんの歌というか声、それに歌詞も
格段にその度合いが強まったなぁと思いました。
詞でいうと、初出しで楽曲よりその詞がひとり歩きしてしまうくらい強烈だった
『五月の蠅』、弾丸のごとく言葉を並べたてるM2『実況中継』あたりの鋭くエグい曲は
これまでのRADWIMPSというか野田洋次郎らしさをそのままに。

M6『五月の蠅』MV↓

一方で、個人的に洋次郎さんの哲学が滲みすぎている気がして今までは遠ざけてきた
RADのラブソングたち。今作はすごーく良かった!

M14『ラストバージン』↓ これはMVも素敵。

あとM1『いえない』も。
なんで良かったかっていうと、押しつけがましさがなくなったのかなと。
相変わらず洋次郎さんの世界観はしっかりとあるんだけど、
私たちリスナーが自由に埋めていい隙間、行間ができたように思います。
ラブソングに限らず全曲で、これまで以上に音に引っ張られて自然に出てくる言葉を
紡いでいる感じがするんですね。
今まで、伝えよう、これをこう言おうと回り込んで辿り着いていた表現や言い方に、
その濃度を保ったまま、より自然に行き着いている気がする。
今までその回り道の過程に私たちもついていかなければならなかったものが、
今作はその結果だけがぽんと置いてあるから、それを掴むまでに私たちはどんな道を
通ってもいい、と。そんな感じ。

歌い方も同じく。初聴でまず、いい声出すようになったなぁとしみじみ思えたくらい。
結局は、詞も歌い方も音も、全てが自分たちが鳴らしたい音楽のために自然と選択できる
ようになったんだなぁという感慨が、私の感想でした。

ごくごく私的な好みで選曲するなら、
今の私自身のグルーヴに沿っていて気持ちいいのは M4『リユニオン』、
今の私自身の耳に心地よいのは M10『パーフェクトベイビー』、
なんだかんだ一番好きなのは M7『最後の晩餐』、です。fin!